タスマニア再発見

豪州国内で毎月発行されている日豪プレス紙と同時掲載でお送りする新特集
当社代表の千々岩 健一郎が同紙に連載する新しいコラムです。
タスマニアの魅力を新しい切り口で紹介するこのコーナーをどうぞお楽しみください。

第50回日豪プレス 2012年10月号掲載 ホバートに残る日本人水兵の墓碑(前)

先回に続き、タスマニアと日本の関係史の古いページを飾る話を紹介しよう。
明治の頃、はるばる日本から時の帝国海軍の練習艦が豪州をしばしば訪れていたことが知られている。
1878年(明治11年)練習艦「筑波」が最初の訪問を行い、以後1935年まで合計23回の親善訪問を行ったらしい。当時の遠洋航海の最大の問題は脚気で、1882年にメルボルンを訪問した「筑波」では3名の水兵がこの原因で亡くなり、メルボルン郊外のウイリアムズタウンにその墓碑が残されている。この事実は、1991年ビクトリア州在住のデビッドソン・野口夫妻の尽力で明らかになった。しかし、ホバートの町にも同様の日本人水兵の墓碑が残されているという事実はあまり知られていない。
今回は
2回に分けてこの墓碑発見の経緯について取り上げよう。

話は、1902年(明治35年)513日、練習艦「比叡」の乗組員、木谷次郎佐衛門三等水兵がオーストラリアタスマニア州ホバート市で亡くなって埋葬され、その当時の墓前での写真が旧海軍の記録に残されていたというところからスタートする。 
19962月、旧海軍や自衛隊出身者で構成される公益団体「水交会」からの木谷水兵の墓所を探してほしいという要請を受けて、ホバートで水産業を営んでいた藤本寿一氏が調査を行うことになった。氏は、ただちに州の図書館および古文書保存館に赴き、1902年の5月の新聞紙上に練習艦「比叡」と「金剛」がホバートに寄港したとの記事を発見、兵学校卒業の候補生を乗せた練習艦隊が、遠洋航海で訪れたことを確認した。しかしながら、木谷水兵のことは何も記されていなかった。 このとき、メルボルンで亡くなった3名の墓碑についての調査を行ったデビッドソン・野口夫妻の所有する資料の中に死亡証明書の原本の写しがあり、そこにホバート市庁の受付番号が記載されていた。この記録を元に藤本氏が調査を行った結果、故木谷水兵の墓所はサンディベイにあるクイーンボロウ墓地にあったが、同墓地は廃止され、コーネリアンベイの墓地に移設されたことが判明した。
ただちに藤本氏は大学に通う長男に託してこの墓地に赴かせ、一つ一つの墓標を調べて入念に木谷水兵の墓碑を探したが発見できず、藤本氏に電話で報告して帰宅の途上、突然乗用車が原因不明で動かなくなった。応援を求める電話を聞いた藤本氏は、直感的に探している墓所が見当違いで、理由の判らぬ自動車の故障は、再度原点に戻れという暗示ではないかと感じた。(次回に続く)

上の写真:左から 練習艦「比叡」、残されていた木谷水兵葬儀の写真、比叡と同型艦「金剛」


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